自動ドアが開き、くたびれたグレーの背広に安そうなネクタイをしめた男が一人早足で入ってきた。背が低く、でっぷりと太ったその男は、額の汗をくしゃくしゃのハンカチでぬ
ぐうと、ハンカチをポケットにつっこみながら、すれ違う他の社員にひょこひょことおじぎをしている。
富永建造、四十八歳。大手電機メーカーの管理部に努めて三十年。ようやく課長の座を手にした、しがないサラリーマンである。この不景気の波にあい、リストラ対象の最優先候補と部下に噂されつつ、なんとかしがみついてきた。
自分の席にどっかと富永が座ると、部下の吉野が書類を手に近づいてきた。
「おはようございます。課長。この見積書なんですが…。」
富永が、またハンカチを出し、額の汗をふいているのを見て、少し離れた席から女子社員たちのひそひそ話が始まった。
「やだあ。課長のハンカチ、昨日と一緒じゃない?」
「吉野さんにニオイが移ったらどうしよう。」
富永との話を終え、吉野が席に戻っていく。東京の有名私立大を卒業した吉野は、背が高く、ハンサムで女子社員に人気がある。
富永は吉野の後姿を見ながら、女に苦労しないであろう吉野をうらやましく思った。もし、自分が吉野のような容姿や学歴を持っていたなら……。富永は、家事もろくにせず、子供に夫の悪口ばかりを吹き込んでいる妻の顔を思い浮かべた。
「…長。富永課長。」
自分が呼ばれていることに気づき、顔を上げると、総務部の高田美紀が立っていた。
「昨日、頼まれた書類をお持ちしました。」
富永は書類を受け取ると、書面に目を通し、
「いやあ、こんなに早く作成してくれるとは、思っていなかったよ。ありがとう。」
と美紀の顔を見た。美紀は、にっこりと微笑み、失礼します、と言って戻っていった。自分が吉野だったら…、富永はまた、さきほどの続きを思い返した。美紀は、他の女子社員とは違い、富永を汚い物のようには見ない。いつもにこにこと笑顔で挨拶してくれる唯一の女子社員なのだ。
(今どき珍しく清潔感のある娘だ。もし、あんな娘が…。)
富永は、電話をかけている吉野の顔を見て、深いため息をついた。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、部署内がざわめきだした。他の社員たちは、昼食を食べるために外に出ていき、しばらくすると、部署内には富永だけが残った。富永は背広の内ポケットから財布を取り出し中身を確認する。千円札がちらりと見える。
「今日もコンビニだな。」
富永の妻が弁当など作るわけがなく、富永は毎月二万円の小遣いの中から昼食代を捻出するのだ。
エレベーターが開き、富永が乗ろうとすると、
「課長さん」
と背後から声をする。声の主は美紀だった。
「これからお食事ですか。私もこれからなんです。よろしかったらご一緒しませんか。」
美紀がにっこりと微笑む。
「えっ?」
予期せぬ誘いに富永は聞き間違いかと思った。
「あの、ご一緒に…。」
美紀はもう一度繰り返した。
「あ…ああ、もちろんだとも。」
15…14…13……、富永は美紀と並んでエレベーターに乗り、点滅するボタンを見つめた。額に汗がにじむ。
(こんなことは初めてだ。女子社員、しかも美人でスタイルの良い美紀にお昼を誘われるなんて…。しかし、どこへ行けばいいんだろう。若い娘が喜びそうな店に行かないと…。平井食堂の味噌さば定食っていうわけにはいかんだろう。)
「課長さん、着きましたよ。」
美紀に言われて、富永は慌ててエレベーターを降りた。
「どこにします?」
「いや、どこでもいいんだが。高田くんがお気に入りの店はあるかね。」
美紀は少し考えてから、
「あっ、一度入ってみたかったお店があるんです。」
と答えた。
「じゃあ、その店に行こうか。」
富永は自分で選ばなくてもよくなったことにほっとして、美紀の言う店に向かった。
「えっ?」
この店です、という美紀の言葉に富永は驚いた。青地ののれんには「平井食堂」とある。威勢のいい店員の声に迎えられて二人は、店内へと入っていった。
「いやあ、驚いたな。高田くんのような若い女性が、こんな…あ、いや、…珍しいね。」
店員がそばにいることに気づき慌ててごまかす富永に、美紀はにっこりと微笑んだ。
「そうですね。他の人はカフェなんかに行くみたいですけど、私、和食が好きなんです。でも、一人では入りづらくって。」
富永と美紀は、運ばれてきた昼食を食べた。いつも食べ慣れた味なのに、その日は格別
においしく感じた。
「ごちそうさまでした。」
富永の財布が小銭だけになったことを、美紀には気づかれなかったようだ。富永はほっとして、
「いや、誘ってくれてありがとう。」
と笑った。
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